【天皇機関説を分かりやすく説明】天皇主権説との違いって何ですか?

こんにちは、ミズキです。

天皇機関説とは何だろう?難しすぎて分かりません!分かりやすく解説してくれませんか?

ミズキちゃん

そんな質問に答える記事を書きました。

天皇機関説は大日本帝国憲法の解釈の一つです。

大日本帝国憲法で天皇が国の主権であるということが書かれていましたが、この解釈について天皇が主権を持っているのは憲法に書かれているからという考えです。

言い方を変えれば憲法に書かれていなければ主権は持っていないという意味でもあります。

大日本帝国憲法のシステム(機関)の一つとして天皇が存在するという意味から、天皇機関説と呼ばれました。

更に踏み込むと国家という形のない存在が一番偉く、その中の一つに天皇が存在しているという考え方です。

議会が一生懸命出した答えを天皇の一言で答えが変えられてしまうというものではないことを意味します。

この考えは明治の末から大正にかけて多くの憲法を研究する学者に支持されました。

ちょうどこの時期明治維新で活躍し、政府の要職を牛耳っていた元老と呼ばれた人たちが世を去り時代が変わりつつありました。

国会でみんなが集まって国の物事を決めていこうという政治運動である大正デモクラシーが盛んになってきていましたから、まさに当時の時代の風潮にマッチした大日本帝国憲法の解釈だったのです。

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天皇機関説を時系列に分かりやすく説明

そんな天皇を憲法のシステムの一つとして捉えるという天皇機関説の起こりを説明していきます。

1912年(大正元年)当時の東京帝国大学の教授であった美濃部達吉が憲法講話で天皇機関説を発表しました。

これはドイツの憲法学者が「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」とする国家法人説を美濃部自身が大日本帝国憲法にアレンジしたものだったのです。

これは国民による政治が行われた大正デモクラシー以降、時代の流れにも後押しされ学術の世界や政治の世界ですら一時期支配的な解釈となっていきました。

時代に後押しされた天皇機関説は皮肉にも時代によって葬られる時がやってきます。

それは中国の東北部、満州の支配権をめぐり中国との武力紛争である満州事変によってです。

満州を手に入れた軍部は、より国をまとめ中国などと戦争ようとした場合、国会の意見に左右される考えを良く思っていませんでした。

そして、ついにその行動は表立って行われ衆議院議員江藤源九郎は天皇をシステム(機関)に一つとして考える天皇機関説は天皇に対して非常に失礼な考え方であるとして発案者の美濃部達吉を不敬罪として告発しました。

さらに天皇機関説自体を反逆的な思想として攻撃したのです。

そして軍部は当時の内閣に圧力を加えて政府声明を出させます。

これは国体明徴運動(こくたいめいちょうせいめい)と呼ばれるもので、簡単に言うと天皇機関説は間違っているという声明です。

しかも1回のみならず、2回も行いダメ押ししました。そして美濃部は自身の主な本が3冊発禁となり、更に右翼と思われる人物(容疑者は現在も不明、軍部という噂も)から謎の襲撃を受け重傷を負いました。

これにより国会議員まで務めていた美濃部は国会議員を辞職し世間の隅に追いやられます(戦後、名誉は回復され勲一等旭日大綬章を受章し、息子の美濃部亮吉は東京都知事となります)。

これにより天皇機関説は完全に息の根を止められたのです。

天皇機関説と天皇主権説の違いを分かりやすく説明

天皇機関説の他にも大日本帝国憲法の解釈が存在しました。

その解釈は天皇主権説です。

これは天皇機関説と真逆の解釈で、天皇はシステムの一つではなく、憲法以上の存在であるというものです。

これは美濃部達吉と同じく東京帝国大学の法学部の教授だった上杉慎吉が提唱したものです。

天皇こそがすなわち国家であり、天皇は絶対的な権力を持つ現人神であるという考えです。

これは決して当時としては異常な考えではありませんでした。

もともと大日本帝国憲法が制定された際の天皇の立ち位置で、本来の解釈を明確にしたものだったのです。

つまり、どんなに議会が議論を出した意見であっても天皇の意にそぐわなければ天皇はその意見を簡単に否定できるという考えと言えます。

これは天皇を操作し、意見を握りつぶすことができる明治の元老にとっては非常に便利な解釈でした。

この明治の元老の立場に軍部が変わることによって国を操作できるのは戦争をするうえでもメリットが大きく、満州事変後は天皇主権説が完全な主流となったのです。

もちろん戦争が終わったのちこの天皇主権説は完全に消え去りました。

現代の天皇について機関説の今を分かりやすく解説

現代の天皇の立ち位置は天皇主権説でもありませんし、天皇機関説でもありません。

天皇機関説が葬られた国体明徴声明から10年経った1945年に日本はポツダム宣言を受諾して降伏しました。

この時点で天皇主権という完全な解釈がされた大日本帝国憲法は効力を失い、消えました。

続いて復帰した美濃部も参加して作られた日本国憲法の主権は国民であり、天皇は象徴というのが現代の日本国憲法に定められています。

当時一部の学者からは天皇は憲法を超えた存在であるから、日本国憲法も天皇がその上に立つという天皇主権説の発展した解釈の意見が出ました。

しかし、そういった意見もポツダム宣言を受諾して降伏し、日本国憲法が作られた時点で「革命」が起こったと見なされるという意見によってほぼ消えたという経緯もあります。

天皇の主権自体が国民の革命によって消滅したという解釈です。

このようにして天皇を巡る両方の解釈は消え、現代は象徴という形で天皇が存在しているのです。

天皇機関説を分かりやすく説明してみた-まとめ

大日本帝国憲法における天皇の憲法上の立場について、解釈は二つありました。

一つは絶対的な存在とする天皇主権説、そしてもう一つは天皇は憲法上の一システムの上で主権を持つという天皇機関説です。

当初は大正デモクラシーの流れで天皇機関説が大きな支持を受けましたが、満州事変以降の軍部の台頭によって消滅し、天皇主権説が主導を握りました。

そして最後は戦後の日本国憲法によってその両解釈は完全に消えたのです。

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